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石村英美子が「とりあたま」で観たり聞いたりしたものを、三歩あるいて忘れないうちに書いています。
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劇団HoleBrothers「アンダーグラウンド・サイコ」@西鉄ホール

楽日に観ました。

細かな部分の話は置いといて、

「もの足りない」

ってのがおおまかな感想です。
でも、よく頑張った!とも思っちゃうのです。
なんとかまとまってはいたのです。

この劇団の持ち味=幸田脚本って、
人間の持っている暗部、つまり誰しもが持っている要素にクローズアップし、
そことどう向き合うか、またはどのように目をそらすのか、が醍醐味なのだと思うのです。

どんだけ暗くたって汚くたっていいのです。が。

人物設定が「腑に落ちない」のです。
特に女性。男性の作家が女性を描いた時に起こりがちな、
”おんなのひと”という十羽ひとからげが起きてしまっている気がして。

女性は浅はかかも知れませんが、白痴ではありません。
バカな理由でも、理由ときっかけがあって動くのです。

そこら辺が雑に見えて。

「なんで」

がないのです。表現の中に。
やっちゃったこと自体より、なんでが必要なんじゃないの?
それがないと、ただの都合の良いキ○ガイよ。

あとは・・・うーん。

「底辺には希望はないのかよ」

って台詞がありましたが、底辺じゃないですよ。
ありがちなただのワーキングプア程度ですよ。
どんな浅い底ですか。もっと思い切りよく書けばいいのに。
人間の尊厳ギリギリの、日本社会には存在しないことになっている人々くらいの。

でもね、役者さんが生き生きしていたなぁとも思うのです。
でもね、その表現の選択は無しじゃないの?とも思うのです。
でもね、常態での人間関係が微笑ましくってよかったなとも思うのです。

ああ、まとまらなくなってきました。

とにかく、結局、何を思えば良かったのか解らないままエンディングを迎えてしまったので、
それが気に入る気に入らないは別として、なにがしかの主張を持って欲しいなと。

次回作はガツンと心にフックする作品を作ってもらいたいとの期待を込めて。
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4月18日(金)@市民会館

再演でした。
峰尾かおりさんと一緒に行きました。

初演を観ていてDVDも所有しているワタシは、開演前、峰尾さんに
「石村、口を滑らしそうなので喋りませんから」
とだけ告げ、暗転を待ちました。

もうね、ご存知な方も多いので詳しいストーリーとかいいと思いますけどね、
脚本がずるっこなのです。泣きますわもう。

今回の配役は、山内圭哉さんを除き総取っ替えでした。
龍門寺さんは他の役者さんではダメなんです。

「うわーーーーん!いややいややいややぁ!」

ものっすご可笑しくって可愛いくって泣いちゃうのです。

弁髪の強面の大人が(ヤクザの構成員ですきっと)
オトモダチの猿「ジュンペイ」が死んじゃったと子供泣きする様は、
山内さんの破壊力を超えられる俳優は居ないとさえ思われるほどです。

で、全体なのですが、
どうしても前回の役者さんの残像がよぎったりします。

春風亭昇太さん、良かったのですが、
前回は本物の作者の後藤ひろひと氏がやった作家役なので、
そこら辺の不動のリアリティってゆうか、
何ものにも代えられない説得力の点で厳しかったかなと。

でもカーテンコールで、大王のマネして
「アデュー!!」
かましたあたり、芸歴の長さ故の強さと粋を感じましたぞ。

あ、よぎらない人も居ます。新妻聖子さんとか良かったなぁ。
ガラッパチで口が悪くて慈愛にあふれた看護婦さん。
この物語って、彼女目線で描かれたものなんですね(←いまさら)
(だって前回の役者さんではそんなこと感じられなかったのですもの)

初演の鮮烈さにかなうものはないのは仕方ないとして、
十分に楽しめた公演でした。



あとですね、ほほ〜と思ったことがありまして。

「役者さんの持ち味」

頑固で意地悪なジジぃ、
大貫を演じたのは今回は吉田剛太郎さん。
前回は木場勝己さん。

さすがのベテラン俳優、どちらも大貫として確固たる存在感だったのですが、
カラーが違います。いえ、人物が違います。

初演の木場さんは意地悪さにエッジが効いているというか、
理知的で、品が良くて、隙がなくて、悪い意味で頭の良い会長さまでした。
そんな、人の心の機微を解しない人物の、態度や言動の変容が心を打ったものです。

再演の吉田さんは、どちらかというと大らかで我が侭な「暴君」といった感じで、
言わば少しかわいらしさのニオイがある(子供っぽい?)会長さまでした。
そのかわり、感極まった時の表現も連動して無垢で、かわいいくそジジぃに見えて来るのでした。

どっちが良かったとか、合っていたとかではなく、
違う役者さんが演っているのですもの、
その違いが面白いってことを楽しめた経験でした。

再演の妙、と言った域でした。

石村、本当に後藤ひろひとさんの作品のファンなので、
G2さんがらみではないですが次回作の

恐竜と隣人のポルカ

も、楽しみなのです♪


劇団藍色りすと「ソレカラ、」@大博多ホール


藍色りすとを観に行って来ました。

宇ノ木靖子さんと一緒に行ったのですが、
ワタクシも彼女も、この以前この作品に関わった事があります。

なにげに再々々演なので、
いかなるブラッシュアップが施されているのか、期待半分、不安半分。
(不安とは、もし以前関わった時よりも格段に面白かった場合、
やっぱりそれはそれで凹むのではという人間の小さい不安です)


素舞台でした。
以前は照明が入ると内部が見えるハーフミラーを使った、凝った舞台装置だったのですが、
今回は3つの山台を除いてなにも在りません。

ほう。
しかしながら、職場、内的世界、ボクシングジム、スタジアム等、
場面転換が多い脚本のため、還って効果的なのかも。

で、実際、芝居の内容の方はというと・・・

ここで、いい事を書き連ねるのは簡単です。
過去、関係者だったことを加味すると、
大人の対応としては無難なことを書いておけばいいのだと思います。

でも、

でもね、石村は大人では無いようです。


まず、5年も前に書かれた脚本であるにも関わらず、
弱点の補正・日本語の不備がほったらかしであったことが非常に残念でした。

数カ所の変更や、ラストシーンは書き直されていましたが、そこじゃ無いんです。

主人格の涼子が行き着いた決意がもたらした結果、を見せるのではなく、
そこに行き着く心の機微の描写の甘さを加筆修正していて欲しかった。

「わたしがんばるの」(←要約しすぎ)

なんでがんばる事にしたのか、全然伝わらなかったので、
前向きなハッピーエンドが白々しく思えてしまいます。

人との繋がりによってもたらされた勇気なんだよ。ってことでしょうか。
んなもん脚本読んでるから知ってます。そう見せるのが、思わせるのが狙いなのは知ってます。

じゃぁ、どこで人と繋がっていたのでしょうか。
どこで心の交流があったのでしょうか。
どのシーンだったのでしょうか。

伝わったのでしょうか。お客様には。
ワタシに注意力と感受性が無かっただけなのでしょうか。



太田美穂さんの脚本に書かれている台詞の中で、石村が大好きなものがあります。

これは「ソレカラ、」のラスト近く、3つに分かれている人格が、優しい許しと決意と覚悟をもって統合(?)するシーンで出て来ます。

『母さんに、名前があるのを知ったのはいつだった?』

秀逸じゃないですか。

それまでは「役割」であった母親が
「個」であることを認識した軽い(あるいは大きな)衝撃。

自分にとっての関係性だけで認識していた「他」が、
それとは無関係な心を持った「個」であることを認識する瞬間。

他者を「個」として認め、周りの「個」から享受していたモノを再認識し、
またそれによって相手を慮ることを学ぶ。

悩んでいるのは自分だけなんだと、だれもそれを分かってくれないんだと、
すねて甘えていた自分からの脱却。成長の必須過程。

こんな感じのが描きたかったのではないかと。
ただただ推察します。
推察ではなく、感じさせて欲しかったのです。

そして、ちきしょー負けないぞ!と悔しがらせて欲しかったのです。


やはりどうしても、
無いつもりでいても、

石村にはこの作品に対する思い入れが在るらしく、

胸中穏やかならざる観劇後なのでした。
Kentaro Kobayashi Solo Performance Live Potsunen 2008
「 Drop 」@ももちパレス

全国ツアーの初日でした。

開演前、初お目見えの舞台装置を近くで観察しようと、お客さまが舞台きわに集まってしまっています。
うん、気持ちは分かるのですが、リノに手形が付くし、音響設備なんかもあるから触らないでね。なんて、気になって仕方がありません。
そうゆう石村は、上手3列目端の座席で上手の鹿がいる装置群(絵画におけるモチーフ群と言った方がしっくりくるかも)を超観察。


このツアーはまだまだ続くし、細かい物ひとつでも伏線のネタバレになるので、非常に書きにくいのですが、過去公演における下手のクローズアップコント用のデスクくらいのボリュームで、上手にも組んであったと。んで、それらが石村の大好きなアカデミズム臭たっぷり。博物館が美術テーマだそうですね。

約2時間のステージでした。

オープニング、完全暗転の中(近かったので)上手から出てくる小林さんが見えて妙に緊張。
「Drop」が誕生した瞬間を目の当たりにしちゃったのですよう。

初日で(本人曰く)芸の荒いところも多かったのですが、凄まじい情報量とそれをハイスピードで処理する様に、完全に魅了されます。そして簡潔で正確なムービング。
すべてを聞き取りたいので、笑い声を上げるのがもったいないくらいです。ま、笑うんですけど。

過去作品の、あのキャラクターやあの人物が再登場するたびに歓声が上がります。

それはとっても嬉しいし愉しいのです。が、初見のお客様が置いてかれてないかな?と心配になったり。よけいなお世話ですよね。

あ、もうお分かりだと思いますが、石村は小林賢太郎さんの作品の大ファンなのです。

初めて観せてもらったのはたったの2年前。「○〜maru〜」
その時、なんて言うか、救われてしまったのです。ちょうど凹みまくっていてですね、観に行くのを止めようかってほどの落ち加減だったのですが、最後の最後に
「もう、おやめなさい」という台詞で救われちゃったのです。

・・・・・・謎。

「向いてないからやめよう」と思っている所に「向いてないからやめれ」と言われて救われた謎。
石村、救いという言葉好き過ぎですね。

「Drop」で確信したのですが、この作家の一番好きなところは、

悲観や絶望のネガティブなパワーに頼らず、ただ優しく「なににもなれないにんげん」を描くところ、です。

どうなのでしょう?
ネタの精密さや、表現の巧さだけではなく、根底にある優しさのようなものに惹かれている人は実は多いのでは?

実際、エンディング間際の台詞ではうるっとしてしまいました。
決して泣くトコではないんですが。笑うトコなんですが。

よせばいいのに2日目も福岡楽日も行きましたよ。
舞台は生き物で、育っていってる感が、ああ、名古屋(最終公演地)に観に行きたいなぁ、などという欲望を呼び起こしたり。
行きませんけどね(行けませんから)


夢見心地の三日間でした。

マニアック先生シアター「あいすこひあり〼」@青年センター

友人でもある峰尾かおりさんが所属するマニアック先生シアターの実験公演?を観に行って来ました。

詩人で書家の坂本京さんと、おどりの峰尾さんのコラボ。

白い紙で覆われた、繭の中のような空間。
客席とアクティングエリアは川の字構造で、シンプルながらただの青年センター練習室がたっぷりの異世界感。

まずはホワイトボードに、詩が書かれていきます。
ホワイトボードと黒マーカーの質感が、京さんの作風に合っていてちょっと驚き。

反対側から吊られた大きなロール紙(A0プリンタ用でしょうか)が床に広げられ、次々と詩の世界とそれに連動したおどり、というかムービングというか、が展開されます。
追ってプロジェクタでも詩は表示されるので、少し見づらい角度の時も、内容は理解する事が出来ます。

不思議なもので、ちょっとブラックで重めのテーマでもユーモラスで笑ってしまいました。

ほとんどが視覚の情報で構成された公演でしたが、同じ「目」で観た情報でも、脳で処理する箇所が違うというか、字の持つ力と、文字情報がもつ力、そして人間しかもおどる人間は、全く違う刺激を与えてくれたのでした。

多分、全部で40分くらいの作品群でしたが、非常に心地よい昼間のひとときでした。
AGAPE store第12回公演『からっぽの湖』@北九州芸術劇場


寂れにさびれた「野間口湖」で繰り広げられる、あるいは繰り広げられない人間模様。

からっぽとは、そうゆうことなのですね。

登場人物はすべて同年代(同級生)。あ、一人違いますね。
20年前に起こった野間口湖「ノッシー」フィーバーは、時を経てやるせない残骸として残っています。

それぞれの過去、またはどうにもならない現在。

それぞれの”とらわれ”は決して特殊な物ではないけれど、
あ、ガーディアンさんは微妙に特殊ですけど。


設定年齢は多分38歳。
田舎の高校を卒業して20年の月日が流れ、かつての希望や可能性は色褪せて、
諦観にも似た平常心で日々を過ごしています。


石村は、この年代の話が嫌いです。
特有の尻の座りの悪さがあります。

この物語に出てくる人物は、客観的に見て不幸です。
何も成してないし、何にもなってないし、先行きに明るさは見えません。

でもきっとこんなものなのでしょう。

でもきっとこんなものなのでしょう、というのが嫌なのでしょう。


全体的には、ライトなタッチで描かれており、間の気持ち悪さの笑いもよかったのですが、いかんせん見終わったあとに落ち込んでしまいました。

ノッシーが居ても居なくても、それは救いにはならないのです。

石村には生々しすぎました。
単純に好みの問題なのです。
いわきオフィス&NPO法人アートマネージメントセンター福岡公演
「クラブオブアリス」@IMSホール


変型舞台は細長い、アラビア数字の「Ⅰ」の形をしていて、その両サイドを「Ⅲ」の形で客席がはさむ(対面の客席が見えます)構造。

飛ぶ劇場の「正しい街」もこんな構造でしたね。

3列目に座った石村は、
前の席のお客さんの頭の隙間からアクティングエリアと“おぼしき”場所を観ていました。

舞台レベルが0なので、演技の半分以上を声と推測で観る状況・・・つまり、見えなかったのです。こんなに見えない舞台は初めてです。コンサートならね、音楽がメインだからアリーナとかで見えなくても、まぁアレなんですが(その場合巨大スクリーンがあったりもしますけど)

せっかく役者さんが全方位で演技しているのに、こちらにベクトルが向いている時にさえ「なんかやってるな~」みたいな距離感があって、どうにも入り込めなかったのです、残念ながら。こんなに見えないとは主催側も思ってなかったんでしょうね。

でも頑張って見ました。

石村はこの物語に出てくる「アタシ」と同世代です。去年の誕生日だって、えぇ、一人でビール飲んでましたよ(号泣)


でもね、ちっとも共感できなかったんです。


誕生日なのにひとりぼっち(そうゆう生き方選んだんでしょ)
過去に囚われて頑なに心を開けない(やってるのは自分よ)
さみしい、さみしいよ(いい歳なんだから強くなりなよ)


観ながら、どんどんイジワルな考えになっていきます。ただの近親憎悪でしょうか。甘えてるようにしか思えなくって。

鏡の向こう、アリスの世界の住人もイジワルです。そう、あの世界の住人は原作からしてイジワルなのですが、なにか違和感がありました。

あとで思ったのですが、ちょっと普通の人間っぽすぎて生々しかったのかもしれません。異世界感が欲しかった。

ついでにゆうとクラブがクラブに見えませんでした。音楽が空間を埋め尽くし、コテコテの非日常を演出してあるのがクラブだという認識なので。

最後、「アタシ」は頑張って生きていく事にするのですが、なんでそうなったのか石村にはちっとも判りませんでした(ラストも殆ど見えなかったです・・)ハッピーエンド好きなんですけど。

なんだか心にフックしそこなった感じですが、その何割かが舞台が見えないことに起因しているのならば、次回公演ではもそっと工夫して頂けるとありがたいです。

よい役者さんも揃ってたとも思いますので、もったいないです。

ともあれ、既製(既成)脚本を上演する難しさは付いてまわるのでしょうね。


去年の「遠州の葬儀屋」の時にも感じた、ホンモノはどうだったんだろう・・・という感覚はぬぐえませんでしたから。(どっちがホンモノとか無いはずなのに)

いろんなコトを考えさせられた公演でした。
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石村英美子
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女性
職業:
プロのフリーター
趣味:
惰眠 つまみぐい
自己紹介:
九州在住。
お芝居が好きで、ちょこちょこ観に行っています。最近は観るだけに留まらず、何がしかのお手伝いに行くことも。
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